1973年の太平洋クラブライオンズでは、1973年の太平洋クラブライオンズの動向をまとめる。
この年の太平洋クラブライオンズは、稲尾和久監督の4年目のシーズンである。
概要
1969年オフの黒い霧事件でチームは戦力ダウンに陥り、親会社の西日本鉄道が経営権を福岡野球へ譲渡。新球団の中村オーナーはネーミングライツを用いてゴルフ場開発を手掛ける太平洋クラブがスポンサーとなり、太平洋クラブの親会社である平和相互銀行の人脈で資金にゆとりのできたライオンズは戦力低下を補うべく、各球団からの余剰選手を無償や金銭トレードでそれぞれ獲得。こうしてスタートした新生太平洋は、心機一転背番号を24から81に変更した稲尾監督の好采配もあり開幕から好調で、前期の優勝が期待された。しかし、6月に阪急が猛反撃すると勝ち越しながら4位に転落して終了。後期はAクラス入りが期待されたものの、開幕から阪急が開幕ダッシュに成功するとそれを追いかける展開。結局前期優勝の南海・日拓の後塵を拝して5位に終わった。借金は1ケタに減って4位に食い込んだが後期の負け越しが響き、稲尾監督の悲願であるAクラス入りはならなかった。
チーム成績
レギュラーシーズン
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
オールスターゲーム1973
できごと
- 5月3日 - ロッテ戦(川崎)の7回、ファンがフィールドに瓶や空き缶を投げ込み、試合が中断。これを機にロッテとの遺恨が勃発。
- 5月20日 - 基満男がプロ野球3万号ホームランを放った。
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
出典



